昭和40年04月23日 月次祭
この方金光大神が祈るところ天地金乃神と一心なり、この方金光大神が祈るところ天地の神と一心なり。天地は流行る事もなければおしまいもない。そういう私どもは、神様を教祖のお取次ぎによって拝まして頂いており、信心の稽古をさして頂いておるのでございます。この方が祈るところは、天地金乃神と一心なのである。しかも、その天地というのは流行るということもなかならければ、いや、すたるという事もない。
世間には、流行神様と言ったような神様がずいぶんあるんでございますけれども、そういうことがない。流行る事がない代わりにおしまいもない。ですから、そういう生きた神様を頂いておるのでございますから、私共が生きた心をもってこの神様に打ち向こうて行かなければ、生きた働きに触れることは出来ない。ね。生きたものと、生きたものの出会いがある。生きたものと、生きたものの交流である。ね、
ここのとこを皆さんがよぅく一つ分からなければいけない。だから、なぜ心が生き生きとしてこなければならないか。ね、降ろうが、照ろうが有り難しと。ね、そこんところへお互いが、その心を込めさしてもらって、ね、心が生き生きとしてくる。心が躍動してくる。その生き生きとした心をもって神様を拝ましてもらうのであり、すがらして貰うのである。神様のお心を体していかなければいけない。
今朝から、森部の高山さんが、親子三人ずれでお参りして見えた。もう、先生お天気の良い日は、植木屋さんで御座いますから、もう忙しい、忙しいで、もう追われつずけでございます。最近、嫁さんを息子が長男がもらいました。その嫁さんと参って来るんです。三人で。ほんでもう、お湿りの日なっとん、こうして揃うて、お参りさして頂かなければというわけなんです。
ですから、お湿りが楽しみである。お湿りが有り難い。お湿りのおかげでお参りが出来る。お天気のおかげで御用が出来る。ね。もう、ほんとに雨の降りゃあ困る。道が悪うなるし、ね、もう、そん、どこいきも出来ない。というように、その、苦悶だところには生きた働きは生まれてこない。天地を称える、神様の働きを称える。お湿りのおかげで今日は家族揃うて、親子三人がお参りが出来たと。
そういう私は、あり方、それだけの事。ね。それが段々年がいってまいりましてからですたい、ね、私どもの日常生活の上に起きてくるお湿りの上にでもです、ね、しるしいような事柄の上にでも、難儀と感じることの上にでもです、ね、このお湿りのおかげで、この難儀のおかげで信心が進ましていただく、神様のお心が分からして頂くと。そういう心を私は生きた心だと。ね。
それはなるほど、生きた心と言うのは、例えば腹を立てます、これなんか生きた心です。ね。もう、芯から腹かいてます。ね。芯から腹を立てる。ね。芯から腹を立てるからこれは天地に通わないはずはない。私、2・3日前、ある方から聞かせて頂いたんですけれども、あの、部落の方達の生きられる年齢の、何と言うですか。平均年齢というのがね、三十七歳と、どれだけかだそうです。
この辺で、部落の方と、こう申しますでしょう。ああいう方達の。ね、それが今ごろは、もう皆同じなのだと。誰でも同じと。神様の目からごらんになればです、神様の目からごらんになっておられれば、部落の人であろうが、ね、私共であろうが皆同じなのである。神様のかわいい愛し子なのである。ところが、そこにですね、やはり心の中に一つの何かがあるわけなんですねいつも。
何時も自分の心の中に、何か重いものをかろうておるような、ね、例えばそんな事があってはならんのだけれども、先日も、好きで、好かれて結婚しようということになって役場に調べ行った所が、そうだったと言う訳なんです。ですから、そういうようなことを例えば、そのなんとわなしに心の中にそういうですね、一つのクーっとする問題をもう、子供のときから持っておられる。
それがですねそういうような、この生死の平均年齢がそんなに、その登記の上に現れておるというのですから。いかに信心が大事かと言う事がわかりますね。腹を立てた、例えばこれがアメリカのある科学者が研究した、犬にこう餌をやる。ほんでもらおうと一生懸命、そのやって来る。その食べようとするとこう取り上げる。食べようとすると取り上げる。ですからもう一生懸命に怒ってしまうわけなんですね。
その犬を切ってその血を調べたと。ね。おいしい物を食べさせて喜びいっぱいの時に、また、その血を切って調べた。ね。それは科学的に、現れておる事。それはその、喜びの方の血にはです、長生きしなければならない要素がいっぱいあるということです。片一方には、もう早死にをしなければならない、要素がいっぱいだということ。腹を立てておるときの血には。
いかに信心させて頂いて日々安らぎの生活をさせてもらわなければならないか、喜びのおかげを頂かなければならないかということが、そう言う一つの科学的な実証からででも、または登記的な今のような事からでも分かるですね。ですから、信心しておったらです、此処のところが出来なければ、だから信心しておっても同じだと言う事。信心をしておっても心配をする、不平不足を言うと。
難儀はやはり、信心のあるもんでも、無いもんでも、どうしてこんなに難儀をいつまでもひっかろうてはなければならんじゃろうかと言うて、悔やみまわっておったんじゃ同じなんです。どうぞ信心さして頂いて、ね、そこんところの道理を分からしてもろうてです、ね、その中に喜びの感じれれる、分かれれるところのおかげを頂かなければならない。私は今日久しぶりでお湿りの、チョット上がりました夕方でした。
ここんところも開けっぱなしてね、とてもその今日、夕べからの雨風で、ここに、上の木が散ってるんですね木の葉が。手洗いの中には、中に浸けてあった椿の花が落ちておる。葉がいっぱい落ちておる。ここに座ってじっとその、こんかった、こん鉢の上ばかりのことではありますけれども、こう、みんなを眺めさせて頂いておるとです、もうその、木の葉の散り具合の素晴らしいのに驚く。ね。
かえでが落ちておる、その落ち具合の素晴らしいのに驚く。ただ何処を見ても、ここ見ても素晴らしいなあ、素晴らしいなあと思うてその、私ここに一時間ぐらい座って黙ってこうやってみよった。その眺めさしてもらった。自然の働きってそんなに素晴らしいのです。けれども散らかしまわってというようなだけの感情の人には、やはりそれは散らかってしもうてっち、早よはわかんかという事にもなるなる。
はわけば、きれいになりますけれどもです、その自然に落ちておる木の葉の形とか色とか、ね、落ち具合というものがです、一つの理を形成しておる。しかもそれは、深い深い意味である。私は、ここでいつもそれを感じるのですけれども、枯れた木の葉一枚の中にでも、そういう有り難さが感じれれるような心を私共は育てていかなければならないと言う事。ただし、不自然にです、誰かがここへ、鼻紙を丸めてポンっと捨てたといたしましょうか、ところが、これはどうでしょうかね。
私はそういう事を感じてから、はっはっー、神々、散らかっておったのではいけないと私思う。神と言う事は、神様の神。信心の事。自分の中に信心が狂うておってはいけないということ。また信心が、自分の心の中に狂うておったら、自然のそうした働きをです、ね、自然の働きを有り難いとも合掌しても受けることも出来ない、もちろん、元気な心で受けることも出来ない。ね。
紙が散らかっておってはいかん。自然に木の葉が落ちて、自然に枯れ枝が落ちて、ね、その中になら、素晴らしい美しさも、ね、何ともとも言えん、これはもう表現には出来ない、悪いとも言おうか、サビとも言おうか。ね、お茶の先生にも似たようなものを、その散らかっておる庭の中から感じとることが出来る。いつまでもいつまでもみあかない。どうでしょう皆さん、私共の日々の中にです、自然に落ちてくる木の葉、自然に落ちてくる枯れ枝、自然の雨の中に叩かれておる。
そういうような事柄がです、素晴らしい事だと見えれるようになったらたいしたことだ。ね。自然に起きてくる様々な問題。昨日私、朝奉仕終わってからちょっと合間にです、座らしていただいとりましたら、頂くと言う事と蒙ると言う事が違うというような事を頂くんです。おかげを蒙りまして有り難うございます、とこう言う。おかげを頂きまして有り難うございますと言う。私同じように思うておった。
皆さんどうですか。頂くのと、蒙るのは違う。訳分かりませんから、昨日参考書だしてから、一生懸命その蒙ると言う意義をその調べようと思うて、見ましたけれども、その、その、意味が分からなかった。蒙るという時には、災難を蒙るという時にも使いますですね。ね。蒙ると言うのは、これは、願わず神様が下さるもの。頼まず神様が下さるもの。それは、災難を蒙ったという場合でも、やはり、蒙ったのであり、神様が下さったものであると言う事なのです。
頂くというのは、どうぞお願いしますと言うて貰うた時に、これが頂くのである。そこで、蒙らして頂いてありがとうございますと言う事になった時がほんなっこ。蒙らして頂いて有り難い。この辺で分かるでしょう。ね。雨が降った、風が吹いた。木の枝が落ちた、木の葉が散らかっておる。これは自然が下さったのであるから蒙ったのである。それを、例えば、私共の上に、まあ少しばかり、お茶でもかじったり、お茶の精神なんかを体得しようと、信心を通してわからして頂こうというような稽古がです。
いつの間にかそういうような、木の葉が散っておるような木の枝が、あのその落ちておるようなことの中にもです、侘びとかサビとかいう美しさを感じ取る事が出来るように段々なってきておるようにです、信心さして頂いて、万物霊長である人間がです、万物を見て道理に合う信心をせよとおっしゃる。ね。道理に合わないことならいざしらずだけれども、道理におうて起きてくることが、一切がです神様の蒙るものであるとして、頂かしていただくそれが、信心の稽古だと。信心の稽古とはそれなんだと。ね。
昨日、一昨日でしたか、国雄さん、だったです、と思います。久富さんとこのご長男。蕗繁盛のおかげという事を頂いた、ね。蕗繁盛のおかげを頂く為には、ということを頂いた。お夢の中に。蕗、蕗繁盛というのは、とに、尊いと、例えば一つ書いてご覧なさい。ね。皆さんが一番求めておる物。ね。これほど尊いもの、その一切を私共は、これに、身につけたり、中には宝石もあろう、お金もあろう、立派な着物もあろう。
美味しい御馳走もあろう。ね。私共が求めておるそういう、ふき繁盛のおかげを願い、頂きたいというのは、私共のこれは、人情であり、誰しも同じ事だったでしょう。いや、私しゃいらんと言う人は無かろうと思う。それには、今ほど栄えなければならないという事を頂いた。妙賀。ね、妙賀栄える蕗繁盛なん。妙賀とは、今度は、妙が、女編に少ない。賀は、賀正の賀。よろこびの妙と書いてある。ね。
よろこびの妙というのはです、言わば頂いた事もなからなければ、なかなかよろこびの妙などというものは頂けない。今日はある方から電話が掛かって来た。お願いのお届けである。熱心に信心をされるのにもかかわらず、その言わば困った問題なのである。ね。私、どうしてどうして、そのあんなにあれだけ熱心なおかげを頂いておられるのに、ね、御造営のことなんかにも打ち込んで御用頂いておられるのに、どうしてそういういうなら、言わば、難儀な事が起こってくるであろうかと私は思うた。
そしたら昔私が子供の時にね、あの竹をこう割ってね、こげんしてねここにこう飴を付けた。皆さん若い方は知らないでしょう。あれはあのう万歳飴なんかって言うとですね。具合に五本竹がこうやってしてある。これに赤い飴がこういっちょつけてある。ね。これをですね初めの間はこれを、こうやって割って渡されよるところを頂いた。次にはね今度はぜんぜん付いてないのを渡されよるところを頂いた。
ははぁ、こういうことなんだなと私は思うた、ね。さあ、氏子の願う事を願いどおりにしてやればさぞよかろうけれども、それでは、信心も分からなければ、めぐりの御取り払いも頂けないと言うこと。ね。だから、私共が、飴の付いておる時だけ、有り難いというけれど、さあ、自分の思い通りにならなかったらいかにおかげで無いかのように思う。それでは、神様の心が分かり、神様の思いが分からせて頂くと、この飴の付いてない、これの方が、実を言うたら有り難いんだと。
いわゆる成り行き、成り行き今みかげというような心がこれに頂けてくるようになる。神様、あいすみませんと。おかげを頂きまして有り難いという心が生まれて来る。ね。信心が無い人が見たらばです、信心しておってどうしてあんなに難儀してなさるでだろうかというような場合に、その難儀をしておる人が、親神様の思いが分からしてもらい、信心が段々わからして頂いて、その事によって稽古をさしてもらう。
そのことによって、心を磨かしてもらう。そのことによって、改まらして頂いて、おかげで信心の稽古が出来ますと言うような喜びを私は、妙賀だとこう思う。神様が、分かってくれた、分かってくれたと言うて、言うて下さるような喜びを私共に送って下さるのです。ね。御道の信心はです、いわゆる、生きた神様を現すという事、生きた心を持って現すという事なんです。
そういうような心を持って、私生きた心と言うと私は思うんです。そこにはです段々、蒙らして頂くところのおかげがです、いわゆる蒙らして頂くというところのおかげが、いよいよ偉大なものになって来る。ね。私共が願っておる事は、いかにも偉大なようであって、私共が願うておることはチョコットばっかり。もう神様の目からご覧になれば、もう小さい小さい事柄です。どうぞ頭の痛いとこ治して下さい。ね。
この問題がいっちょ解決のおかげを頂きますようにと。どうぞ、商売繁盛いたしますようにと。ただいまから集金に行きますからどうぞスムーズに集金が出来ますようにと。ね。それは、願わなければなりませんけれども、願っておかげを頂かなければなりませんけれども、そういう願いは小さい小さい願いでしょうが。ね。夢にも思わなかったような、言うようなおかげにもなってまいりませんのです。
為には私共がです、蒙らして頂くところのおかげをです、ほんとに、蒙らして頂くという事になってこなければ、そこがスッキリ稽古になってこなければ、私がここに座らして頂いて今日感じたように、ね、木の葉が落ちる事も、雨が降ることも、合楽でなからなければこんな、気分は味わえませんもん、ね今日まで。例えば高山さんじゃないけれども雨が降らなければ親子三人揃うちゃ参られませんもん。ね。
木の葉が落ちておる、木の葉が枯れ枝がです、一つの造中流をなしておる。ね。でも一葉一葉を眺めても美しいなあ、自然の働きは素晴らしいなあと感じきらなければおられないようにです、私共日常の上に起きて来る問題、ね。信心のないあいだは、それが一つ一つ腹が立っておった。その問題が一つ一つ心配になっておった。ね。腹が立つとだから、結局、めぐりになっておったかと言うと早死にの稽古をしよった。
心配させて頂いてです、ふき繁盛のおかげの頂ける、元を潰すような事をしておった。そこんところが、反対に、おかげと分からして頂く時にです、自分の心の中に与えられる喜びを、神様が与えて下さる喜びを妙賀と言う。今朝の御祈念の時です、山田さんが、毎朝、朝の御祈念にお参りになります。神様から、いつもその頂かれる、素晴らしい事を頂かれるんですね。
先日なんか、こんな事を頂いておられる。釘一本打つでも、親先生と通じるでしたか、親先生と通じる、ん、通じれば、ん、通じてお願いすれば、ああぁそうそう、そうでした。その事をほんなら私、思い出せなかった。そうそう。ね。釘一本打つでも、親先生と通じればです、御神意が入ると頂かれた。御神意が入る。素晴らしいでしょう。ね。狂わない御神意が入る。
例えば、ここのお宮さんには御神意の入ってござらん、あんなこと言うでしょう。そういう意味なんです。例えば、私自身が、天地の親神様との交流が出来て、私の心の上に、私の形の上に、生き生きとした喜びがあり、生き生きとしたおかげを私が現しておるとするならば、親先生っと祈れば私と通うという事。釘一本打たして頂くでも、親先生と通じれば御神意が入るとおっしゃった、神様が、お言葉として。
素晴らしい事だからあんた控えときなさいというて、いつもあんな素晴らしい事。どうでしょう皆さん、釘一本打つでも、金光様、釘一本打つでも、親先生、とこう祈らせて頂くところにです、その釘一本に御真意が入るという事が素晴らしいじゃないですか。今朝、頂いておられることがですね、生礼と頂かれた、字で。それは、生きた礼と書いてある。御礼の礼が書いてある。
皆さんが、今日までおかげ頂きましてと言うて、お初穂をお供えをなさる。御月次祭だからと言うてお供えをなさる。果たして、それが生きたお礼になっておるだろうか。お参りするけん、やっぱお賽銭もあげなんごとなっとる。百姓のお初穂は、もうちゃんと決まっとる。それがもう、何か知らんけど、ただ、ここを入って来る入場券のごたる。ね、それこそ、お賽銭が無いならば、木の葉一枚でもと仰る。
私共が、修行中の時分には、いよいよお賽銭が無い時にゃ、私の福岡で修行さして頂く時に、大坪さん、お話にきて頂く時には、どうぞ、電車で来て下さいっちゅう。ていうて市内電車を、乗る切符を一冊私にお供えばして下さった方があった。それでも、私はどこまでも、もう、テクテク歩いて下駄履きで、お話に参ります。また、夜であろうが、夜中であろうが帰る。歩いて帰る。
ですから、私にはもう切符はいりません。ですから、もういよいよお賽銭が無い時には、あの切符をお供え、お賽銭代わりにお供えさしてもらう。もう相済みません。もう、ほんとに相すみませんという気持ちが、もう、おそらく、荒戸の教会のお賽銭箱には、ずいぶん、切符のお賽銭が入っておった事だろうと私思うのです。木の葉一枚でも、氏子が真心もって供えるならば、神様がその真心を受けて下さると。
それが、一万円束でありましてもです、それが、家でありましたり、キザな事であったんでは神様は、お喜びにもならん、お受けにもならんというような事では、ね、馬鹿らしいじゃない。ね。私はようお初穂を整理さして頂きながら思うです。もう、なんかこう、わざわざ、握り締めち、シワぎれたっちゅうごたっとば、チョットこうしてから、してある人がおるです。
あれは、もう御取次ぎを頂き料のなごと思うちゃるちゃん。私は皆さんがお初穂をお供えなさらんでも、ね、お賽銭奉まつなさらんでも、お願いをされればです、一様神様にお取次さして頂くのですから、お取次ぎ料はいらんです。ね。神様に皆さんの真心なのであるから、真心がシワクチャになる事ではいけんじゃないですか。この辺の事が椛目の者はみんな解っておいでられて行きよられる事は有り難いと私は思う。
生きたお礼、生礼。ね。そいならです、よし、んなら、今晩からちょいと、生きたお礼、さして頂こうと。いうたところに、心が生きておらなければ、生きた、言わば生礼がそれじゃあ乗移らんです。そうでしょうが。ここへんが生きておらなければ駄目と、ね、心が生きておらなければ、天地を動かすようなというようなおかげになってこないと。天地に通わないと。そこで皆さんがです、その生きた神様を、生きたお取次ぎの働きによって、皆さんの生きた心を持って願われる。
そこに生きたひれい生きたおかげというものが現れてくる。これはもう物質とか金とか健康とか、人間関係とかもう私共の難儀と感ずる一切のおかげになってくる。ね。生々とした心で押しまくって行かなきゃいかん。ね。その生きた心を頂くたんびです、今日私がここへ座って庭の例えば散らかっておる素晴らしさに感嘆な声を上下さして頂いた様にです、起きて来る事柄問題をです、愈々合掌して受けさしてもらえる。
どうして、このようなことがと言わずにです、ね、それが、痛い事であるならば、やれ痛や今御影をという心になる。ね。こういう、はがいい思いをしなければならない元は私自身にあるのだと分からして頂いてです、本気でそのところに取り組まさして頂いて、私が改まらして頂く以外に無い、私が限りなく美しゅうならして頂く事に以外にはないというような信心を持ってするといいです。
それが、例えば出来なくでもです、そういう精進をさして頂く時に神様が喜び給う、その喜びが私の心の中に通うて来るから不思議なのである。今晩、参っておられますけれども、この先の篠原さんっていう方が毎晩参ってみえる。毎晩、参ってみえると、もう、毎日毎日、御造営、御造営の事で皆さんが一生懸命御用頂いておられる。2・3日前でした、本当に親先生、すいません。
私どもは、側におりましてから、ほんとに、御造営というて後造営の為に何にも出来もぜずに、明日からはです、ね、その御造営の、御準備のために、ささやかな修行をさして頂きたいと思う。その日はです、朝から何か知らんけど心の中になんか、わだかまりができて、もう、なんか知らんけど、モヤモヤしてたまらなかった。腹が立って、言うならばたまらん。もう、それこそ先がどうかなる。
爆発するごたる、その心を押さえて、ご神前に額ずかして頂いてから影で、皆さんが一生懸命御造営の事についての、お話し合いが、その事にあたっておられる人達の、働く姿を見せて頂いた時にです、私共が、側におってから御造営のことには、言わば思いもしていない事が、相すまんと思うた。明日から神様ね、その為の修行をさして頂きます、明日からは、その為のお日参りを、続けさして頂きますと言うて。
神様にその事を、願い終えたとたんにです。今までここんなかにあった、モヤモヤが、もうほんとにもう、不思議なくらいにね、霧が晴れたように、スッキリしたと言うてお届けをしておられます。ね。まだ、それを実行に移しておられないのにです、私共が神様に喜んでいただけるような事を思うただけでも、ね、神様は、私共に与えて下さるのは、いわゆる妙賀である。ね。
その妙賀がいよいよ、妙賀栄えた時、その栄えた妙賀が土台となって、受け物となって、そこに、いただけれるところのふき繁盛のおかげであって、初めて神様に喜んで頂けれるような繁盛という事になるんです。ね。昨日の晩でしたか、やっぱり御造営の事で、いろんなお届けがございました。その事をお届けさして頂きよりましたら、一番、もう、最終的な、ああ自分がもう今度はもう、説教なさる古屋さんも、まあある意味の恵心の作と言うのでしょうか、自分もおえる修行である。
委員長の秋永先生も、もう先生今度にゃもう、先生、文句の言うとこがない。素晴らしい。えいがかの絵かなんか、もう、今まではもうほんとにヘトヘト。不眠不休で書き上げられた、ところが、これだけ見事な物が出来ましたところがです。 これこれの予算が超過致しましたと。どうぞ神様にお願いして頂かにゃいけませんと言うて秋永先生が、その晩に出て見えられたんです。
その事を私神様お願いしてもらいよったんです。そしてらね、神様、下さることがです、こう開けずに、こう開けとおっしゃったんです。心眼に、としんじで。ね。こう開けずに、こう開けと。例えば、襖なら襖もですね、例えば、ここをこう開けたら、ここに半間だけが開くわけです。こう開けたら楽です。ところが神様はね、こう開けよと仰るんです。そしてからですね、この襖を向こうに押し倒すような勢いで開けるところが向こうの方に、青空転座がずうっと広がって見える所を頂いた。
こう開けずに、こう開けて。ある時、三代金光様の所に、ある先生が難儀な問題を持ってお出でなられた。金光様、おかげになりましょうかちゅうてお伺いされた。したら、金光様がおっしゃった。はい、あちらの方は開けっ放しでございますとおっしゃったそうです。ね。いわゆる、おかげは無尽蔵ですよと。あなたの信心一つなのですよと、和賀心一つなのですよと。心配なされますな。一心におすがりなさい。向こう方は、開けっ放しのおかげが受けられますと言うことをおっしゃったんだと思うのです。
はい、あちらは開けっ放しでございますとおっしゃった。私は、昨日の、一昨日の晩に頂きますのも、やっぱそんな事ではなかろうかと私思うた。私共が何千万と、とてもそげなんことは、まあ、なるほど、今の椛目では夢のような話なのである。ね。今日でも神様の働きを持ってするならば、それは問題ではないと言う事。ね。それは、日頃はこう、こう開けてよかろうけれども、ね。
こう開けずに、こう開ける所の勢いしかも、生、生きた心を持ってこれを押し、開けるようにです、行く時にそうしたおかげが受けられるんだと言う事を頂きまして、ね、ただ、がむしゃらにただ、押しの一手だけではいかん。そこに、私共は、信心の、修行が、いよいよ本気での稽古がなされなければならないということになるのじゃないでしょうか。10人、20人で御用じゃない。
椛目にご縁を頂いている皆も、方達がです、皆さんの願いと神様の願いが一つになって、いよいよ有り難い事に成就していく事のためにです。こう開けずに、こう開ける所の信心がなされる為に力がいるのです。その力というのは、私共の心の中に、躍動するような妙賀の喜びに浸らして頂く時に、暑さを暑さと感じん、寒さを寒さと感じん、しるしさをしるしさと感じんで済むようなおかげが受けられるのです。ね。
心の中に喜びの妙を頂く時に、ね、有り難い勿体無いが、暑いも寒いも感じないこつ。ね、もう、腹の立つだんじゃなか、その人が拝もうごとなってくる。私共の心の中が、妙賀がです、一杯繁盛いたします。妙賀が栄える時、そこに、降っても有り難いならば、照っても有り難いという、神様が蒙らして下さるところの大きなおかげに対してです、私共人間では分かりません。
私にとってはそんな事になったり、痛い事であったり、はがいい事であるのですけれども、それは、私共がもともとそうするじゃない、自然が、雨が風が、ね。木の葉を散らすのであり、木の枝を落としたのであるのですから。その、落ち具合といい、色合いといい、ある意味叩かれては、その風情といい、素晴らしい事だなあと分からして頂くような信心、神様がこれが有り難いと分かってくれた。
その、分かってくれた時、篠原さんのそれではないですけれど。ね。明日からはそういう修行をさしていただきますと思うただけでも、神様一日、どうにも出来なかったところ、心のモヤモヤを払うように取り払うて下さって、すぐに与えて下さっておるのも喜びである。その、喜びを持って、こう押していく時にです、ね、しかも、五人、十人ではない、沢山の人がする信心を持ってです、その力を結集してです、ね。
自分だけがよかもんになろうかというような、ね、浅い心はだめです。皆がそれを取りもうて、励ましおうて、ね、しかも、その生きた心を持って、その力を持って、私は向こうに押すところの、こう開けるところの信心にならして頂く時に、私共に力を受けるならば、にじゅうじょうのおかげにまた繋がらしていただくようなおかげが受けられるということを私は確信いたします。
どうぞ皆さん、お道の信心がね、火の行でもない、水の行でもないとおっしゃるから、家業の行とおっしゃるから、家業の行の中に、ね、日常茶飯事の中に自然に起きて来るところの、木の葉やら木の枝をやらです、観賞出来るような稽古をなされなければいけません。あっ、神様がこの事によってまたおかげを下さりよるんだと、久留米の初代の石橋先生に、ある時、小倉の初代の桂の親先生がおっしゃった。
当時きらぼしといわれる偉い先生方ばかりズラリ並んで御直会かなんかの席場で、ね、ここに座っておられる先生で、石橋先生に向かってから、石橋さん、あなたげんの息子は馬鹿のっちいわっしゃったそうです。ちょっと、やはり、大変なお徳を頂いておられましたけれども、まあ、言うならば、頭の弱い私のような風しちゃったち。ね。その時に、石橋先生、おっしゃったそうです。
親先生、おかげで信心が出来ますとおっしゃったげな。(笑)息子にそういう子供がおりますおかげでですたい、ね、息子にそういう子供がおりますおかげで、おかげで修業が出来る。おかげで信心が出来ます。石橋さん、でかしたと言うて一番口に盃をさされたという話が残っております。これなんかもう自然を頂いてぬいてござった石橋先生の姿と。ね。先生がいつもおっしゃっておられた、信心辛抱、ね、
天地神明に不足をいわずとおっしゃった。これが、久留米の初代の石橋先生のご信心であった。この満座の中で人に恥じをかかせるようなことを言うて、と、もうそれこそ、顔色ひとっ変えられるだけではない、それこそ、おかげで先生、信心が出来ますと言うてお答えされた時にです、桂先生の心中を、本当に察しますですね。いい弟子を持ったと思われただろうと思うんです。
石橋さん、でかしたと言うて盃をさされたということでございます。ね。信心の味わいが分かれば分かるほど、神様の思いが分かれば分かるほど、ね、そういう頂き方が、しかも、楽しみを持って出来るようになるというところに、信心生活の楽しみが、有り難さがあるのです。椛目の通いが苦痛であってはなりません。楽しみで楽しみでたまらん。そういう、ね、私は、信心をお互いが身に付けさせて頂いて。
生きた神様への繋がり、生きた信心をさして頂いて、生きた心を持って神様に打ち向かう時に、生きた働きが現れて来る。そこに生きたお礼によるお婿さんが頂いておられる生理、生きたお礼にていう事が、出来る様になるのじゃないでしょうか。その生きた御礼がまた、生きたおかげになって頂ける事は勿論、言わんでも分かった事です。ね。私共は、その生きたおかげが返って来る事を条件としてではないです。ね。
そうさして貰わなければおられない生々とした心を持って生きた。生きた御礼がです、ね、なされていく時に、それこそ、世紀の奇跡と言われるような、私思うとにです、これが、御造営がです、あの設計の通り本当に出来るとするならばです、これはもう本当に世紀の奇跡だと思います。そういう奇跡がです、私共の信心によって頂け。そこにそういう力がです働きがです。
愈々神様を信じきる事の出来れる力というのを頂かして頂く機会に椛目にご縁を頂いておる方達は今立たして頂いておる様な気が致します。何というてもその生きた、ね、なかなかこうして、主人が説教台の前で言いなさる時、ほんにそうと思うんだけど、実際腹ん立つ問題が起こってくるとやっぱ腹もね立つ。そうそこで信心の稽古をしとかなければいけないということ。朝に晩に頂く御理解がです、自分の心というものを支えておらなければならないという事である。
朝の御理解が今日1日を支えてくれる様な御理解の頂き方をさせて頂かなければならんということなのである。ね。そういう皆さんおかげを頂かしてもろうて初めて信心さして頂く者の有り難さ、信心をさして頂いておる人が沢山います。けれども生きた信心をしておる人は非常に少ない。そこで例えばお願いしてから頂くおかげを頂いてますけれど、蒙る様なおかげは頂いていないという事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞおかげを頂きますように。